結果として出来上がるのは、複数の貴族たちによる貴族社会。彼らには宮廷での立ち振る舞いが必要になる。つまり、それを社交と言う。それが「五行大義」や「易経」でも裏目に出たらしい。だから関西の知識人って中原通善の「新マスター英文法」ぐらいにしかなんないらしい。
関西のこういうところを勘違いしちゃうらしい。おそらくアカデミックが別種のそういうものになってしまうっぽい。河合隼雄でさえそうだったらしい。
意味わかんない?最初の「五行大義」はどうやら、縁起の悪い話はダメなこととして載せなかったらしい。ある意味、占いから縁起の悪いものを全て取り除いて世に出したようなもん。それを善しとする観点と価値観があるっぽい。女子学生のためのアウグスティヌスみたいなもん。まず読ませないだろう。「告白」の部分ぐらいしか。
きっと私にちゃんとしたゲイにされたら、むしろ穢されたと思ってしまう気がする。それだけじゃなく、きっちりゲイになったらおそらく、あくまでも説明のための言い方だが、正式にゲイとして人権擁護されるようになるだろう。しかしそれは関西人がイメージしてるものとは実は違う。ちゃんとしたゲイになったからって、東大合格が約束されたわけじゃない。でもそう思っちゃってる。つまりそれは90年代の話をしちゃってるってこと。
物足りない?これっぽっち?意味わかんないらしい。こりゃ嫌われるわけだ。いや、私がなんだけど。気をつけないと同じ勘違いされる可能性があるら。アメリカのユング心理学の話をした方がいい気がする。昔もそう言ってジョセフ・キャンベル「神話の力」を読んだのかもしれないが。
つづく。
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