払うもんは払わないとなんないのはそれはその通りなんだけど、なぜなら彼らの労働に対する正当な報酬だから。それはその通りなんだけど、問題は、誰に?どれに?何に?っていうところがまだちょっと、怪しい。
だからすでにそれで間違えて、
×私に → ⚪︎“お父さん”が自分に
×ゲッターズ → ⚪︎六星占術に
っていうところからまずは訂正したわけじゃんね。いや、だから、彼らの労働に対する正当な支払いを、不当に買い叩いてしまったりタダでもらえると思って図に乗ってたりすれば、運命の帳尻合わせでやはりそうなるってこと。
だから、「私のために」じゃなくて、そもそも「自分のために」、いや、だから、同世代のゲイの誰かのためにじゃなくて、「自分のために」じゃないとそもそも意味がないって言ってる。「私のために」だと資料関係にカネを使わないとならず、今年は結局それが意味がないっぽい。もっと「自分のために」でないと。まず一番最初にそこで間違えてる。
つまり、英語の本で言えば、私が読んでもしょうがないが、伊藤和夫の「英文解釈教室」や「ビジュアル英文読解」なんかを「自分のために」買わないと意味がないってこと。こう言えばわかる?
すでにそう言ってるっぽいんだって。
・・・・・・。ぬぅぅぅ・・・
伊藤和夫の英語の本は私が読んでも実際に意味がない。おそらくジャンボが読んでも。“お父さん”が「自分のために」やらないと意味がない。そして私は江川の「英文法解説」はすでに持ってて手元にある。本棚に置いてある。私はこっちを読んでるから伊藤和夫を読んでてもあんまり意味がない。
・・・・・・。はぁ〜?
意味わかんないっぽい。仮にそれがわかったとしても、次は自分とトモちゃんのどっちのためかわかんない。さらに自分のためか同世代のゲイのためか、それもどっちかわかんない。
・・・・・・。ジャンボは読んでもいい気がする・・・
そうでもないと思うよ。1980年度生まれは高校の時に新課程に完全に移行した年だから。この頃は実は英語の改革にこそ大きく力が入れられてて、表面的には数学の方が変わったって思われてたけど実は数学の方こそそうでもなかった。むしろ英語の改革の方がよっぽど大きかった。数学は実はそうでもない。複素数平面は見た目ではそう思えるけど、1次変換に比べればアホっぽかっただけで、どっちかっていうとオイラーの公式まで行かないと意味がなく、そして意味がないままそこまで行かず、むしろIT時代を見据えて3次元空間のベクトルと確率・統計・数え上げ数学の方がよっぽど重要だった。しかし、実はそのどれもが旧課程でもすでに力が入れられていた。だから実は数学ほどあんまり関係がなかった。
英語の改革こそが最大の本題だったとさえ言える。どっちかって言うとパラグラフ・リーディングしないとなんない気がする。ちなみに古典ギリシャ語の学習っていうのはテキストが限られてて、学習する原文のテキストが限られてるからこその完全文法だったわけでもあって、英語学習をそうしてしまうとやはり間違える。それとそれは同じじゃない。いや、同じじゃないんだけど・・・今の聖書翻訳でさえもはやそうではないから。
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