2024年8月28日水曜日

そば処を仕掛けるっていう発想そのものが・・・

 陰なら引っ込んでりゃいいのに、出たての芸人みたいに笑いを取ろうしてるのかと誰からも勘違いされることを、「仕掛ける」。陰ならふつう大人しくしてるから、あえて「仕掛ける」っていうこの発想は、陰を主体に手段として陽を用いてる形になる。「食べてダイエット」とかと似たような発想でもある。
 無にしてしまうっていうのは陰のなかでも特に、年期の入った行きつくとこまで行ったような、最果ての癸の発想で、もはや水であることさえ忘却の彼方ぐらいの発想。癸を「陰の水がある」「雨としてある」っていうのは、そういう説明をしないと陽の連中にわかんないから言ってるだけで、別に雨になって降らない。実は最も無に近い。無だから変幻自在になんにでもなれるっていう術でもある。
 癸にキャラがある、他(の人)とは違う何か特徴がある、っていう観点そのものが、実はただの、癸本人にとってはめんどくさそうに、とりあえずの説明のために言ってることに過ぎない。悟りなんか生まれた頃にやり終わっちゃった気さえする。だからハッテンしまくんなきゃ。
 洗練とか熟達とかっていうのは、人から褒めてもらえる、認められる、ひいては人々の集まりである社会から称賛される、っていう意味をどことなく持ってしまうら?癸っていうは本当はそれからさえもはやすでに離れてしまってる。だから別に、学生サークルが学生らしくアマチュアっぽくても別にどうでもいいわけ。ただ学生時代の思い出にさえなりすればそれでいい。
 ちなみにジャンボって別にうまくないから。
 どっちかっていうとむしろ下手だから。
 こいつの程度ってまだそんなもんなのに。

 だからこの意味と文脈で言うと、

 ・・・・・・。うん。・・・・・・。ん~~~~~~????

 陰の水の癸のお水💦が、ある、ある、ある、それでこの街を、ゲイタウンの聖地とまで言われるこの街を、いったん、埋め尽くたしたと思わせないと、こいつらが大人しくならないし、気が済まないし、言うことを聞いてくんない。だから本当の意味では、無によって埋めつくした。実はそこには何も無い。まぁある意味それを幻術とも言う。
 無いってことで埋め尽くした。「このノンケ社会で報われなかった男たちを・・・」っていう、「何かがある」っていう陽の極致とは、本当は違うに決まってる。
 だから全ての終わりであると同時に全ての始まりでもある。だから、零。
 本気で意味がわかんないからなのに。何かがあることを期待してる人たちはディズニーランドを考えるに決まってる。そこは「ある」ってことで埋め尽くされているから。「何かがある」ってことのために、「死」さえ用いなければならない。それが本当の、千葉のディズニーランド。本当はそうだから。夢の国!ハッピーライフ!そのためにも、千葉のディズニーランドは「必ず」ホラーハウスを作らなければならない。
 結婚っていう「第2の誕生」のためには、人は一度、「死」ななければならないケースが存在する。

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ねぇ、本命を口説こうと思って、うなぎ祭りって言うの?

ネコって言って近づけば 相手のガードがゆるむから 近づきやすいって? だから言ったでしょ。 あんなのが100人も200人もいたって 穢らわしいにも程がある。 あぁぁ なによそのオヤジくさい反応は。 皆殺しにして抹殺したいぐらい。 うるせぇオカマ。 それともそれがあんたちにとって ...